京都「月輪寺・空也の滝」
- 日々のこと
令和元年9月4日、曲作りが捗らず悶々としながら、車折神社へお詣りに出かけた。
そのまま思い立って、自転車で嵯峨の山奥にある清滝へ行くことにした。
途中の清滝トンネルは、いつもながら不気味だ。
薄暗く、車一台ようやく通れるくらいの道幅が真っ直ぐと伸びていて、奥で曲がっているため出口が見えない。
独特な冷たい空気が漂う中を、自転車で一人走っていると、まるで暗闇の中で異空間へと吸い込まれていくような感覚になる。
しかし、その怖いのを我慢しながら通り抜けると、眩しい緑の木漏れ日と、爽やかな清流の音に包まれた。
この怖さから爽やかさへのギャップが、いつもながらなんとも言えない。
急な下り坂の左手には清流の煌めき。
しかしなぜか自転車を停める気になれず、坂道の惰性に任せて橋を渡り、そこから更に登る山道へとこぎ進めてしまった。
はてさて、この先に何かあるのか。
はたまた何もないのか。
気になって、グーグルマップで検索してみると、『月輪寺』と『空也の滝』というポイントが目に付いた。
かなり距離がありそうだが、こうなったら行くしかない。
自転車のチェーンはギリギリと軋み、足も腕もパンパンになりながらも、歯を食いしばって突き進む。
汗だくだくで目がしみる。
ようやく空也滝の側までくると、看板に『月輪寺、ここから登山道を歩いて1時間』と書いてある。
既に手足はビキビキだ。
一瞬躊躇うも、こうなりゃとことん!!
腹をくくった。
自転車を停め、清流に足を浸し、顔を洗ってクールダウン。
さぁ、ここからいよいよ本格的な山道。
気持ちだけはまだ20代なので、軽快に登りだすも、みるみる脚が重くなるアラフォーの足腰。
肩にかけた笛さえ重く感じる始末。
急峻な山道は、五年前に挑んだ熊野古道を彷彿とさせた。
これも修行だと己を鼓舞しながら登り進めていると、
ゴロゴロゴロ、、、
振り返ると、ほぼ目線の高さで薄墨色の雷雲が近づいてきている。
これはヤバい。
さすがに焦り、久々に体力の限界を超えるつもりで駆け登っていくと、屋根が見えた。
月輪寺だ。
凛々しい親鸞聖人の銅像を脇目に、お寺の軒下に入って間もなく、雨が降り出した。
すると、側にあった扉がガラリと開いた。
「早く中へ入って!!ここの雷は凄いから!真横や下からくるからね!!」
尼さんが屋内へ呼び込んでくださった。
助かった。
通してもらった部屋の大きな窓の向こうからは、ザラザラと雨が打ち付けている。
時折、恐ろしい雷鳴とともに稲妻が走るのが見えた。
薄暗い部屋の奥には、不思議なほど静かに仏壇があった。
ギリギリで雨宿りに導いてくれた仏様に手を合わせていると、尼さんがタオルと冷水を用意してくださった。
雨に打たれてはいないものの、打たれても変わらなかったかなと思えるほど汗で全身びしょ濡れだったので、この上なく有難い。
齢75という尼さんは驚くほど若々しく、凛とされている。
聞けばここに住まわれており、常日頃からこの山道を、日用品や食料を担いで登り降りされているとのこと。
超人だ。
世間話をしながら雷雨が過ぎるのを待つこと30分ほど。
徐々に雨も弱まり、真っ白だった窓の外に、美しい京都の街と、彼方には奈良の山並みまで見渡せる絶景がうっすらと広がっていった。
更に目の前には鹿の親子がトコトコと。
外へ出てみると、重ねた年月を偲ばせる御堂も、銘木の時雨桜も、精悍な顔をした親鸞聖人像も、ハタハタと雨露を滴らせていた。
月輪寺の歴史は古く、平安時代には空也や空海など、高名な僧侶もここで修行し、法然や親鸞などとも縁深く、白洲正子さんも訪れ、この寺をこよなく愛したということだった。
なんだかとても、腑に落ちる。
献笛の申し出をしたところ、快諾してくださった。
固く閉じた本堂の扉を開け、蝋燭に火を灯し、お香を焚いてくださった。
両脇には四天王像。
上手奥には五大明王。
中央には阿弥陀如来。
いずれも平安時代から、じっとここに佇んでおられるとのこと。
この度の導きに感謝し、平和への祈りと、先日の大雨による被害の復興を願い、笛の音を奏上させていただいた。
献笛後に尼さんが振舞ってくださった昆布茶の味は、忘れられそうにない。
陽も傾いてきたので、尼さんに感謝と別れを告げ、急ぎ下山した。
(色んな意味で胸いっぱいだったため、写真を撮り損ねた)
下りの道は霞が深く、熊野さながらの幽玄な雰囲気を醸し出していた。
かなり暗くなってきたが、せっかくなので空也の滝も拝みたいと思い、急いで石段を駆け上がった。
今にも夕闇に包まれそうな空也の滝は、石造の鳥居の向こうで蒼白い光を纏い、轟々と飛沫を上げていた。
激しい夕立ちの後だったせいか、水の勢いが凄まじい。
あまりの神々しさに合掌し、拝礼した後、気づけば僕は作務衣を脱ぎ、滝に吸い寄せられるように、瀑布を全身で浴びていた。
最初は凍えそうな冷たさに逃げ出してしまいそうだったが、呼吸を深め、真言を唱えつつ耐えるうちに、間も無くフッと悪寒が抜け、身体の芯から熱が立ち昇ってきた。
その熱はやがて全身をつつんだ。
邪気が瀑布によって叩き出され、清々しい気が溢れてくる、そんな感覚だった。
初めて味わう、滝行。
どれくらいの間滝の中にいたのか、時間の感覚がわからなくなっていたが、水飛沫の中うっすらと眼を開けると、夕闇は更に深くなっていた。
あまり遅くなるのも危ない気がするので、ゆっくり滝から身を離すと、ぐらりと景色が歪んだ。
眩暈にふらつきながらも身仕度を整え、空也の滝に拝礼し、その場を後にした。
雨に濡れた石段に気をつけて降りるうち、眩暈は治っていった。
自転車にまたがり、山を下りる。
滝行の時の熱が、夜風に冷めることなく、まだ丹田に灯っている。
普通なら怖いはずの不気味な夜の清滝トンネルが、不思議と怖くなかった。
木々の間から覗く夜空に、薄雲に霞む三日月が浮かんでいるのが見えた。
なんだか、生まれ変わったような心地だった。
2019.9.4